2012.05.03

映画テルマエ・ロマエ


テルマエ・ロマエの映画を観てきました。
阿部寛は思った通りのローマ人ぶりでしたが、やはり上戸彩が阿部寛の異形ぶりについていけない薄っぺらな感じでその点は不満が残る内容でした。
漫画を読んでいないほうが、読んでいる人より楽しめるかな。
奴隷が一生懸命ふーふーふーふー息を吐いてたシーンには笑わされてしまった。
レイトショーで家に帰ったのが11時過ぎで、それからお風呂に入ろうとして、思わず浴槽から誰か出てこないかと期待したのは内緒。


ところで、近ごろ私は古代ローマの経済史にも少し興味を持っています。
ローマ滅亡以来これまでのローマ史の研究は言うまでもなく政治史、あるいは法制史などが中心でした。
古代においてはそもそも「経済」(economy)という観念が発生していませんでしたから、当時の歴史書や記述でも政治・戦争といったことに関するものがほとんどであり、古代の経済についての研究には単純に文献とにらめっこをしていても答えが出るものではありません。

ルネサンス(renaissance)という肯定的な言葉が示す通り、それは忘れられていた古代世界の再(re-)誕生(naissance)なわけですから、ルネサンス当時(15~16世紀)の知識人たちにとって古代は現代の範を示す鑑でした。
しかし、21世紀のわれわれだからわかることですが、イタリア半島においては、少なくとも14世紀にはローマ時代の人口を凌駕していることが推計として把握されるのです。
ブリテン島、ガリア(フランス)、イベリア半島、ドイツ、そしてオリエントや北アフリカ等を加え地中海世界の人口は間違いなく古代のそれを超えていたことでしょう。この点についてD・ヒュームは経済的な視点から古代を批判して理解しようとした点で画期的だったと言えるでしょう。

ローマ時代の産業は小麦の栽培など、あくまで農業が主でした。
しかし、15世紀までには産業は未だに農業の占める割合は高かったとはいえ工業が発生してきました。
おそらく、このような農業(=食糧生産)から工業(=製作物)への移行となる原因が存在しなければ、未だに人類は変わることの無い原初的楽園の中で暮らしていたかもしれません。(これは、ローマ時代が楽園だったという意味ではない)
そもそも農業の始まりがこのような原初的楽園からの追放を意味しているかもしれないにしても、人間が農業という自己の(身体的)保存の円環から抜け出したという意味で、産業の分化は人間が自己の人生とは別の時間を生み出すことを可能にしたという意味で画期的でしょう。

人間が「それ」を始めたことは同時に終わりの存在を予感させます。
人類の発展には終点があるのか、あるいは、一度終焉を迎えて、冬から春が生まれるように「再生」の輪廻が生じるのか、どちらなのでしょう。(あるいはそのどちらでもないのでしょうか)


Posted at 22:50 | 日常 | COM(0) | TB(0) |
2012.05.01

はなもも

最近更新が滞っていて申し訳ないです。
書くことはあるのですが、いまいち書く気が出なかった。

近ごろはおもにイタリア史、フィレンツェ史を中心に勉強をしています。
フィレンツェの歴史の興味深いところは、西欧で1800年代に起こったようなことを、1300,1400年代に既に経験していたということです。

端的に言ってしまえば、フィレンツェでは14世紀に既に資本主義の原型と言えるものが発生していました。
その中心にあったのは、「毛織物工業」です。イギリスやスペインから羊毛を輸入し、下級職人が洗毛、打毛、梳毛(そもう)刷毛(さつもう)といった工程を行い、フィレンツェの郊外(コンタード)に住む農婦たちがそれを糸にし、織元が回収し織物にし、染色して商人によって南イタリア、ヨーロッパ、そしてオリエントの諸都市へと輸出されるのです。

このような過程を経て、フィレンツェでは人々は富み、貧しいものが仕事を求め流入し、かくして富める者は増大し、貧しいものもまた増大していきました。その結果は15・16世紀には、西欧随一の商業・工業都市、また文化学芸の都として花の都の名をほしいままにしましたが、同時に政治的には極めて不安定でもありました。
この不安定さを、フィレンツェの弱さと捉えるか、あるいは凡てエネルギーに富むものがそうであるように、活力の証と捉えるかは議論の余地のあるところでしょう。

フィレンツェの経済的変動の歴史は、現代人にとっても示唆に富むものであることでしょう。


写真は、先月半ばにとった花桃。
あるラーメン屋さんの裏庭で満開でした。
紅白と桃とは東洋人にとって祝いとしての最高の形式ですよね。
ちなみに、花の都フィレンツェの象徴は百合です。ですが、市内にはメディチ家の紋章である9個の球の方が多く残されています。




はなもも




Posted at 23:01 | 日常 | COM(0) | TB(0) |
2012.04.15

「小狂騒曲“飛翔体”」

どなたか、シニシズムのある作曲家がいらしたら、今回の騒動の顛末を音楽にしてほしいものである。
例の「人工衛星」のことである。

あの程度の事態であれほどの大騒ぎとは、まさに蜂の巣をひっくり返したような、という形容がぴったりだろう。
米中韓、日本のうろたえぶりをどう見ていただろうか。
なるほど、政府が事態に何らの対応をもしなかったとしたら、もちろんそれはそれで問題である。
しかし、なぜミサイルが飛んでくる可能性が限りなく0に近い関東や中部などの県レベルで“緊急対策室”のようなものを設置していい大人が真面目なつらをしてその業務に当たっているのか、昼間のニュースを見ていて呆れてしまった。

国民の生命および財産は当然保護されるべきである。
しかし、仮にミサイルが落下してきて人に危害を加えるような事態が起こった場合の心配などは、あくまでも技術的な問題である。それは専門的な知識を持った人間、つまり地方では消防レベルの対応が十分迅速に行われれば済む話である。

政府および国民が関心を払わなければならないのは、むしろ日本のどこかに落下し損害を与えたような場合に、その事実に対していかに国家として北朝鮮に対し向き合うべきなのかという方針を定めることだったのである。
マスコミも、ミサイルが落下してきて燃料が有毒なため室内にこもり換気をしないようになどとこまごまとしたことを放送するのではなく、“万が一”のことを考えるなら、戦争状態に陥った時の想定をしておくべきであった。

偶然によるか故意によるかは別にして、国土のどこかが攻撃されたと判断された場合、日本人が北朝鮮に対し経済制裁という名の遠吠え以外にいかなる手が打てるだろうかと考えていた人が、一体どれだけいただろうか。

問題は、技術的(テクニカル)なものではない、政治と外交なのだ。



さてそれはそれ、これはこれとして、今日は雨の中写真を撮りました。
我が家は少なくとも海から80キロは離れているにもかかわらず、近所でカモメを見つけたので撮ってしまいました。

カモメ

セグロカモメでしょうか?
餌を求め川をさかのぼり内陸にも出張してくるようですね。
でも見かけたのは初めてではないので定住して居るんでしょうか。


Posted at 00:17 | 日常 | COM(0) | TB(0) |
2012.04.11

トレイヴォン・マーティン射殺事件に関して


2月26日、フロリダ州においてアフリカ系の少年Trayvon Martinトレイヴォン・マーティン君(17)がヒスパニック系のGeorge Zimmermanジョージ・ジマーマン氏(28)によって射殺された。
日本でも既に報道はなされているが、メディア側は余り興味が無いようである。そして、メディアの興味は、視聴者の興味によって左右される。日本の視聴者にとって、アメリカでの射殺事件は遠い海のかなたでの、日常茶飯事のことでありとりたてて興味をひくものではなくなっているのかもしれない。


私としては、確かに人種差別や人種差別に抗議する声にも興味を持って見守っていきたいが、それ以上に「銃」に対するアメリカ人の反応にも注目している。

今回の事件と、その後の騒動の中で私が奇妙に感じているのは、なぜ抗議する人々は銃自体に対し抗議しないのか、銃を規制せよと声をあげないのかということである。
仮定の話として、トレイヴォン君の代わりに射殺されたのが黒人ではなかったら、「由緒正しい」アングロサクソン系、見た目には分からないけれども名前で分かるドイツ系、イタリア系、ユダヤ系アメリカ人だったら、ヒスパニックだったら、日本人や中国人だったら、果たして事件にならなかったのだろうか。

どのような人種だろうと、銃によって殺されてもかまわない人間などいない。
アメリカ人たちは、「銃はアメリカの魂である」と言うような夢から目を覚まし、3億人の国民が一斉に両手をあげるべきである。
仮に、アメリカの国土が銃でネイティヴアメリカンたちを殺しおいたてることによって作られたにせよ、300年以上も経った現代においてなおそれを持ち続けることに固執し続けなければならない理由は無い。
日本人の多くが1500年近くの長きにわたり刀剣を持ち続けてきたが、現在それを持っていなければならない理由は何一つない。
もし、あるとすれば、江戸時代には人口の9割以上が農民だった日本人が自己のアイデンティティーとして「侍」をもちだすように、貧しいがために旧大陸から逃げるように渡ってきたという自己の出自に目をそむけたいという欺瞞くらいのものである。

興味深いことに、アメリカにおいてはトマス・ホッブズの唱えた「万人の万人に対する闘争」が未だに成立しているのである。あれは、ホッブズの仮構の状況などではない。アメリカに銃がひろがっている限り、アメリカは完全な文明国とはならないであろう。どれだけアメリカが、外交・経済や学問の面で世界に名をとどろかせたとしても銃を完全に規制しない限り粗野で乱暴な国という視線を浴び続けるであろう。

もちろん、法律上の規制のみならず、「銃が必要とされない社会」を作りあげる試みも必要だろう。その為には、そのような犯罪の温床となる貧困を減らし、富の分散をおこなっていかなければならない。

各人が銃を所有することで得られる利益よりも、全員がそれを一斉に手放すことで得られる利益の方がより多いに違いない。そして、「正義」を唱える以上に、銃を所有する権利よりも、人種や性別を問わず銃で殺されない権利の方が優越していることは明らかであろう。



Posted at 22:06 | エッセイ | COM(0) | TB(0) |
2012.03.29

ようやく春ですが、就活の欺瞞


寒かった今年もようやく春が来たようです。
私は毎年のように、この時期になると「桜より梅」という内容の記事を書いていますが、今年は特に遅かったです。

今年は梅のにおいについて強調したい。
桜は基本的ににおいがしないものですが、梅には強い香りがつきもの。

まず白梅。
小梅収穫用の白梅の枝になる小さな花は、バナナのような香りがするように思います。
一方で、通常サイズの梅(白加賀)などの梅の花は何というか、小児用シロップ薬のようなにおいがする気がします。
また、黒い幹に紅い花が印象的なものは、シナモンの香りのような強い香りがするものもあります。
しかし、同じ種類の梅に見えても、香りを嗅いでみると微妙に違ったりするものです。

この時期の植物は、冬をやり過ごしてはいでてきた虫たちを誘うために強い香りを放つものが多いですよね。
私は比較的においに敏感なので、特にこの時期の蝋梅、梅、沈丁花、みつまたなどが好きです。

ume1


ume2



さて、今日はちょっとしたエッセイです。
今大学三年生の方々は就活真っ最中かもしれません。そんな真面目で真っ当な人々に冷や水を浴びせるつもりはないのですが、私はこの言葉を知った時からずっとこの言葉を憎んできました。それは何故か。



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Posted at 23:58 | エッセイ | COM(0) | TB(0) |